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主体性は強迫観念によるもの?

主体性は強迫観念によるもの?

 

個別指導塾での話

 

昨年のことである。

1年間、個別指導塾で高3生を担当していた。

 

「君なら早稲田に行けるよ。」

 

儀礼的にも聞こえるその声かけに対し彼はこう答えた。

 

「先生は東大に受かったからそう言えるんでしょう?」

 

冗談っぽさを演じるためか、笑いまじりの返答だったが、おそらく彼の本音だろう。

 

逆の立場だったら同じことを思っただろうから彼の気持ちはよく分かった。

 

 

東大を受験するにあたり決定的な影響を与えたのは高校の担任の言葉である。

 

「お前なら東大に行けるよ、絶対に。」

 

何年も東大が出ていない高校から東大に受かるなんて、「絶対に」無理だ、そう思った。

 

「お前なら行けるよ」

 

その言葉は呪いのように自分のことを縛りつけ、いつしかその言葉は自分の中で、

 

「お前は、東大に行かねばならない」

 

そんな強迫観念へと変わっていった。

 

 

 

 「強迫観念」という呪縛

 

主体的であるためには、一種の強迫観念が必要だと思う。

 

「自分をいじめていたやつを見返したい」

 

「大学で楽しそうにしている友人に勝ちたい」

 

「自分に期待する担任や家族を喜ばせなければならない」

 

そうした負の感情は爆発的な原動力を与えてくれる。

火花を散らすような原動力だ。

 

その原動力を一番感じていたのは浪人期である。

 

浪人生活はとてもつらい。本当につらい。

ただ不思議なことに、その一年間はとても「主体的」であったと思う。

 

変化のない日常を維持し続けることには莫大なエネルギーを必要とする。

 

朝同じ時間におき、一人で朝食を食べ、一人で予備校に向かい、数人の友人はいたとはいえほとんどの時間一人で勉強する。

 

もちろん一人で寮に帰るし、一人で夕食をとり、一人で寝床につく。

 

こんなにも「主体的」であることを求められた1年間はいまだかつてない。

 

そして

 

「何者」でもない浪人生は、「何者」でもないがゆえに「何者」かであろうとする。

 

自分が「何者」で、「何者」でありたいのか。

 

考える時間は十分にある。浪人生だもの。

 

 

浪人期に友人から進められて読んだ本が一冊だけある。

 

『何者』(朝井リョウ著)である。

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就活で悩む大学生の内面を描いた作品だが、もしかしたら浪人生も就活生も同じようなものなのかもしれない。

 

自分が「何者」であるかを必死に考え、もがき、苦しむ、もっとも「主体的」な時期なのかもしれない。

 

「拓斗くんはさ、自分のこと、観察者だと思ってるんだよ。」

 

「自分は自分にしかなれない。

痛くてもカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。

みんなそれをわかってるから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。」

 

「わかってるくせにそんなことしてるのはなんでだと思う?

それ以外に、私に残された道なんてないからだよ。」

 

「十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ、自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。」

 

クライマックスの瑞月や理香の言葉が胸に刺さった。

 

ただ、十点や二十点では東大には受からないな。そんなバカらしいことも思った。

 

 

 「主体的である」=「強迫観念を抱くこと」?

 

「主体的」であるためには、大学受験生や浪人生や就活生が感じるような「強迫観念」が必要だと思う。

 

でもそれってあまりにも悲しくないだろうか。

 

文科省が掲げる「主体的に学習に取り組む態度」が受験制度に内在する「強迫観念」によってかろうじて支えられているものだとしたら、こんなに悲しいことはないだろう。

 

教育系団体の先輩は言う。

 

「教育って実は教育効果が悪いんだよ。」

 

「教育」という言葉を使うと「教育効果」が下がるという研究データがあるらしい。

 

おそらく、そこにも「強迫観念」が関わってくると思う。

 

 

「教育」という言葉を使うと、「教える」先生と「教えられる」生徒という図式が強調される。

 

すると生徒は一方的に先生から情報を与えられるだけだと感じ、「自ら身を乗り出して学ぼうとする姿勢」を失ってしまう。

 

その結果、学習意欲をなくし、成績(教育効果)が下がる。

 

そんなところだろう。

 

もしかすると、「教育」という言葉を使うことによって成績(教育効果)が上がる生徒もいるかもしれない。

 

教師に一方的に知識を与えられ、一方的に期待される。

 

その結果、生徒は「強迫観念」を抱き、背水の陣の覚悟で勉強する。

 

 

そんなことだってあるだろう。

 

 

だから一概に「教育」という言葉が「教育効果」を下げると言い切れるわけではないかもしれないが、どちらにせよなんだか悲しい気がする。

 

 

 

「受動的」な生徒と「能動的」な生徒で溢れかえる学校って…? 

 

想像してみてほしい。

 

かたや、「身を乗り出して自ら学習する姿勢」を失い、「受動的」に授業を受けている生徒。

 

かたや、友人もいないし彼女もいないし、朝から晩まで「能動的」に勉強している生徒。

 

そんな生徒たちであふれかえっている高校に通いたいだろうか。

 

どちらも人間として不健全な気がする。それが悲しさの原因だろう。

 

 

「教える」先生と「教えられる」生徒という図式がこういった悲しさを生み出すのなら、この図式を問い直してみるといいかもしれない。

 

そうして始まったのが、昨今取り組まれているアクティブラーニング(教えあい学習など)である。

 

生徒である自分が「他人に教え、そして教えられる」

 

生徒同士で議論しあい、一つの答えを出す。

 

そこには「受動的」な生徒はいないし、1人だけで突っ走る「能動的」な生徒もいない。

 

清く、正しく、健全な高校生になれる、というわけだ。

 

私はここに「主体性」の鍵を見出したい。

 

「主体的」である、というのは「受動的」なことでもないし、教師に植え付けられた「強迫観念」によって「能動的」になることでもない。

 

「主体的」な人間は、もっと明るくて、楽しくて、健全な人間であるはずだ。

 

もっと自然で、心の奥底から湧き上がる欲求に素直な人間であるはずだ。

 

そういう人は「受動的」な人間ではないし、「能動的」な人間でもない。

 

その二項対立を超えた存在だ。

 

 

個別指導塾の生徒の話 

 

2021年3月。大学受験の合格発表の季節である。

 

冒頭にあげた個別指導塾の生徒から数日前に連絡があった。

 

「早稲田大学に合格しました。今までありがとうございました。」

 

だから言ったじゃないか。そんな気持ちを抱きつつ、素直に教え子の第一志望合格を喜んだ。

 

大学に入ったら塾講師のバイトをするらしい。

 

 

 

受験には「強迫観念」がまとわりつく。

 

それはいいことかもしれないし悪いことかもしれない。

 

第一志望合格の原動力になるかもしれないし、精神的に追い詰められる原因になるかもしれない。

 

 

ただ一つだけたしかなことがある。

 

「先生は東大に受かったからそんなことが言えるんでしょう?」

 

そんなことを言っていた彼も半年後、

 

「生徒のことを心から応援し、合格を確信し、少しでも自信をつけてほしい」

 

そんな想いから、

 

「君なら早稲田に行けるよ。」

 

そんなことを言っているであろう、ということだ。

 

そしておそらく彼は、「強迫観念」など微塵も感じさせないような、

 

優しく、生徒想いの塾講師になっていることだろう。

 

高橋光のプロフィール画像

高橋光

法学部3年生。座右の銘はまじめにふまじめ。つれづれなる日常を書き綴っていきます。