
公開 : 2021.08.03 | 更新 : 2021.11.22
ナルシシズムに満ちた朝に
一週間の始まりは…
3年生前期の一週間は、月曜2限の「哲学概論」に始まる。
興味がある授業ではあるのだけど、朝だしとても眠いし、授業をBGMにしながら授業時間中に自己紹介記事を仕上げてしまおう。
毎週2限のこの時間が始まる前には、コーヒーミルで豆を挽く。豆は「谷根千ブレンド」か「コロンビアスプレモ」のどちらにしようか。
今日は「谷根千ブレンド」にしよう。
谷根千とは、谷中、根津、千駄木の総称。下町情緒あふれる街並みは、日暮里駅前から始まる「谷中銀座」を中心にいつも人であふれかえっている。
こういうレトロな街並みに憧れて、今年の3月からこの谷根千エリアに引っ越した。コーヒー豆を買えるカフェはたくさんあるし、歩行者天国の商店街はいつも賑やかだし、とても満足。
引っ越しを機に「生活の質」をあげてみようと頑張った。
紺色と茶色のツートーンの部屋を目指して、ソファやらベッドカバーやらを買いそろえた。
中でもお気に入りなのは、テレビ脇に生い茂っている観葉植物だ。
食べ物やら電気やら娯楽やら、部屋の中では「消費」することがほとんどなのだけれど、この7号鉢に入った「パキラ」だけは、「消費」しつつ光合成をして、「生み出している」。
自分も何か「生み出してみよう」と、引っ越してから「自炊」をするようにもなった。
ナルシシズムに満ちた朝に
教授の話しが少々退屈になってきた。
アレクサに頼んでクラシック音楽にかけてもらう。
月曜日の朝から、コーヒー片手に、哲学の講義を聞く。クラシック音楽を聴く。新調した間接照明の調光もちょうどよい。
なんともナルシシズムに満ち満ちた一週間の始まりだ。でも、これくらい鳥肌が立つような、背筋がゾクッとするような、目が覚めるようなナルシシズムがなければ、やってられない。なんたって月曜日の朝だから。
精神分析的にいうと、ナルシシズムは一種の防衛機制らしい。
コーヒー飲んで、クラシック音楽聴いて、一体何から何を守っているのだろう。
おそらく、月曜日の朝の苦痛から一週間の平穏な生活を守っているのだろう。
哲学する意味とは
ふと気をそらしているとzoomのチャット欄にいくつか質問が飛んでいる。
「哲学ってする意味あるんですか?」
教授相手になかなか本質的な質問だ。何と答えるのだろう。
「哲学は…する意味はないかもしれません。意味があるというより、自然としたくなるそんな感じだと思います。」という教授の答えのうち、「自然としたくなる」という言葉が頭に引っかかる。
質問した学生は不満そうだったが、たしかに考えてみると哲学に限らず「意味がないけれども自然としたくなること」は結構ある気がする。
そして意味があることよりもむしろそういったことの方が人生を豊かにしてくれているような気がする。
授業そっちのけで、「自然としたくなること」について少し深く考えてみたい。
「自然としたくなること」を考えるとき、自分の中では「利他性」という言葉が同時に浮かんでくる。
「自然としたくなること」と「利他性」

『鬼滅の刃 無限列車編』はコロナ禍で苦境に陥っていた映画界にあって、興行収入324憶円という空前ともいうべき大ヒットを記録した。その理由を、社会学者/映画評論家の宮台真司氏はこう語る。
「実は「鬼」というのは、メタファーとして「人」なんです。鬼は基本的に自己本位の上昇志向を持つ存在で、つまり現代の人間たちそのもの。」
「それに対して、「鬼殺隊」の人間たちは、仲間を守るためだけにその力を使い、強くなろうという関心を持っている。ここに、利己性と利他性という根源的な対立が、まず埋め込まれています。」
そして、「鬼」になった現代人に対する嫌悪感、人間本来の倫理や内発性を求める動きが、映画の大ヒットにつながったと分析する。
では、そもそも「利他性」って何なのだろう。都合よく 『利他とは何か』(集英社新書)が手元にあったから、本書から「利他とは何か」を考えてみよう。
本書は5人の学者が思い思いに「利他とは何か」を考察する。哲学者から小説家、美学者、批評家、政治学者と幅広い分野からの考察はなかなか読み応えがあった。あとがきにも書いてあるのだが、非常に興味深かったのは全く肩書が異なる5人が共通する人間観に行き着いたことである。
「利他とは何か」、 それは「うつわになること」である。
意図や目的をもって行おうとすること、意味があると確信して行うこと。それはたとえ他人のためになると確信していても、いや確信しているからこそ「利他」ではなくなってしまうという。
それはむしろ「利己」であり、「利他」とは自分がうつわのような存在になることで、「様々な存在が入ってくることのできるスペースをつくること」「計画通りに進むことよりも、予想外の生成を楽しむこと」。これこそ、自分が他者と一つになる可能性を開くことであり、「利他」なのだと結論づける。
つまり、そうした「他者への可能性を常に開いていること」で「自然としたくなる」という感情も自然と生まれてくるのではないだろうか。
「自然としたくなったこと」を考える
教授の言葉をきっかけに、自分が「自然としたくなったこと」を振り返ってみる。
引っ越したこと? コーヒーミルを買ったこと? 哲学の授業を履修したこと?
すべて自分ひとりで選択したと思って悦に入っていたことを振り返ってみると、想像以上に他人の影響を受けていることを思い知らされる。
いや、むしろ他人の影響だけで自分ができているといっても過言ではない。
たしかに哲学の授業を履修したのは自分だけれども、それはバイト先の塾長と哲学の会話をするのが楽しいからだし、
たしかにコーヒーミルを買ったのは自分だけれどもそれはよく家に遊びに来る友人がサイフォン式のコーヒーメーカをもっていてうらやましかったからだ。
西日暮里に引っ越したのは、ゼミの先輩に谷根千エリアのすばらしさを語られたからだし、観葉植物を買ったのは、同じクラスの友人の部屋に憧れたからだ。
『利他とは何か』も、バイト先の先輩が、著者の一人と同じ仕事をしていたとかで貰ったものだし、自炊をするのだって、女性社員率8割のそのバイト先に自分で作った弁当を持っていくととても褒められるからだ。
こうして振り返ってみると、「他者への可能性を常に開いていたこと」で、「自然としたくなったこと」がいかに多かったかということに気づかされる。
ここでいう「他者」とは何も「人」という意味ではない。
「自分とは異質なもの」「自分ではない未知のもの」、知識でも人でも経験でも、自分の世界を広げてくれる存在をここでは「他者」と呼びたい。
そして、こうした「他者へ開かれる姿勢」が、このメディアのテーマでもある「主体性」と大きく関わっていることを直観的に感じている。
今後の記事の中で両者の関係について、深く探っていくこととしたい。
「構造と力」~序にかえて~

「哲学概論」のオンライン講義も終盤に差し掛かる。
コロナ禍の中でオンライン授業に移行するなか、「大学の講義の意義」が大きく問われることとなった。
学生側としては、ぶしつけな質問をチャットで送りつけたり、講義中に自己紹介記事を書いたりできるから非常に意義があるのだけれど、もう少し「高尚に」考えるための糸口として、一昔前の文系大学生のバイブル『構造と力』から、お気に入りの文章を引用して結びとしたい。
コロナ禍であろうとなかろうと、こういった姿勢を果敢に発揮する場として大学が持つ意義は、少したりとも変わっていないはずだ。
「せっかく受験勉強というインスタント公害食品から解放されたのだ、知のジャングルをさまよって、毒でも薬でもどんどんツマミ食いしてみればいい。(中略)実際そうしてツマミ食いされたものが、いつか突然、古典や教科書と連結されることは決して珍しくない。」
「(大学の)門をくぐったあなたは、教養課程に入ることになる。ここで、いまあなたのいるところこそ絶好の地点なのだということを強調しておきたい。そこを、(中略)視野を多様化するための拠点として活用すること。(中略)あくまでも広い視野を求め、枠組みを外へ外へと開いていくこと。」
参考
http://videonewscom|【5金スペシャル映画特集Part2】『鬼滅の刃』が突きつける人間の本来あるべき姿とは
伊藤亜紗, 中島岳志, 若松英輔, 國分功一郎, 磯崎憲一郎(2021),『利他とは何か』,集英社
浅田彰(1983),『構造と力―記号論を超えて』,勁草書房

高橋光
法学部3年生。座右の銘はまじめにふまじめ。つれづれなる日常を書き綴っていきます。