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人は主人公になるべきか?

人は主人公になるべきか?

 

みなさんはRPGを遊んだことはあるでしょうか。『ポケットモンスター ダイヤモンド・パール』のリメイクは本日発売ということで、早速話題になっていますね。

 

国産の作品であれば、最新ナンバリングである12の発売が発表されている『ドラゴンクエスト』シリーズや、PS5で発表されている最新作が待ち遠しい『ファイナルファンタジー』シリーズが有名です。

 

それでは、そもそもRPGとはいったい何の略語かご存じでしょうか?” RPG” はRoll Playing Gameの頭文字をとった略語です。プレイヤーがゲーム内において何らかの役割を担い、その役を演じながら進めていくゲームのことを指します。

 

本質は幼少期にやったであろう「おままごと」と何ら変わりありません。演じる役割が「お父さんやお母さん」なのか、「ペットのワンちゃん」なのか、はたまた「世界を救う勇者」なのかという、ささいな違いがあるだけです。

 

さて、このような特徴を持ったRPGですが、前述した通り、初期の作品を中心として、どうしても「世界を救う何者か」になるということが最終目標となっている作品が多いように感じます。

 

初代『ドラゴンクエスト』では、ゲーム開始時点から世界を手中に収めようとする竜王を倒して世界を救うことが目的となっています。また、登場する仲間14人が全員主人公という、シリーズ初の斬新すぎるストーリーテリングを行った『ファイナルファンタジー6』では、圧倒的な魔の力を手に入れて神と化した宿敵ケフカを打ち倒すことが物語後半の目標となります。ストーリー中に特に決まった進路を求められない「フリーシナリオ」システムをとっている『ロマンシング・サガ』シリーズでさえ、最終的には世界を滅ぼす強大な敵と戦い抜くことになります。

 

このように、「最終的に何者かになる」という経験は、RPGをプレイしている以上避けられません。『ドラゴンクエスト』のようにゲーム開始時点から「自分は何者なのか」という情報が全て与えられているのか、もしくは『ロマンシング・サガ』のようにゲーム終盤になってようやく宿敵がハッキリするのかというような、時期の違いしかありません。

 

 

 

「自分もこの世界の主人公になりたい!」

 

このようなゲームを遊んでいる子どもに(そして例外なくこの記事を書いているライターである僕自身にも)起こりがちなのが、「安易なヒロイズムへの傾倒」です。「自分もこの世界の主人公になりたい!」というような安い承認欲求が生じる場合があります。まぁそれも、ゲームの中では何度も世界を救っているわけですから、当然ではあるのですが。

 

ですが、やはりというべきか、ここで言われているような意味の「主人公」になることができた人は本当にごく少数しかいません。例えば、ほぼ無一文で上京し、スーパーのアルバイトからミリオネアに上り詰めた有名youtuberのHIKAKIN氏などは大変ドラマチックで「主人公」感溢れる経歴の持ち主だと思います。

 

しかしながら、HIKAKINにあこがれる後発フォロワーは無数にいても、HIKAKINになることができたフォロワーは未だかつていません。そのうちの多くはどこかで夢破れて「主人公」ではない「その他大勢」の一人となってしまうでしょう。これは目的を達成できなかったということとほぼ同義です。

 

それでは、そのような「その他大勢」の人々の人生には意味がなかったのでしょうか?そもそも、本当に人は「主人公」になるべきなのでしょうか?この問いに対して、僕は「人は『主人公』ではない主人公になるべきである」と考えています。

 

 

中二病の良い点・悪い点

 

ところで、僕は小さい頃の記憶があまりありません。自分を鏡で見た記憶もあまりありません。初めて鏡を見た時には「あ、これが自分なのか」と少し驚いた印象があります。ゲームの中の「何でもできて超カッコいい自分」とは全く違う、ただのクリクリ坊主とのギャップに驚いたのでしょうか。

 

ここまでくるとかなりの重症でしょうが、とはいえ、「主人公になりたい」という欲求を持っている人が少なくないことは、みなさんご存じかと思います。ある程度まで育ったのにも関わらず、そのような「主人公欲求」を捨てられない人のことを、我々は「中二病(患者)」と呼び、「痛い人」として扱います。

 

厄介なことに「中二病」の人は自分が中二病であることが見えません。むしろ、彼らは心の底から「主人公」になり切っている分、自分を主人公だと認めない人を排斥しようとすらします。心優しい誰かが指摘してあげたり、何らかのショックな出来事が起きるなどしない限りは、中二病は治りません。

 

ですが、心配はいりません。大抵の場合、大人になる過程のどこかで現実を見定めなくてはならなくなり、中二病を卒業することになります。僕の場合は、「大学受験で全落ちしたこと」がきっかけとなりました。それまでは、自分の頭脳や能力に対して絶対的な自信を持っていましたが、それが一気に打ち崩されてしまったためでした。

 

先に釈明をしておくと、別に僕は中二病が悪いことだとは思っていません。誰しもが自分らしい自分を見定めるまでの過程の内に、何者かのキャラクタ性の模倣を行って、個性を確立しようとします。その際に、分かりやすいヒロイズムを背負った、しかし現代社会においては著しく浮いてしまうようなキャラクター性をひな型にしてしまったがために起きた不和、それこそが「中二病」の正体であると僕は考えています。

 

よく「自分探しの旅」とかなんとかいって、タイだのマレーシアだのなんだのに旅行に行きたがる大学生がいますが、中二病の本質は、結局これとやっていることは同じだと僕は思うのです(というかそんな当てのない旅をするくらいなら中二病の方がずっとマシです)。「自分探し」の過程で、まず行われる「出来上がっているキャラクター性の模倣」、それこそが「中二病」なのです。

 

以前の自己紹介記事でもお伝えしたように、僕は「人は、他人をマネることでしか自分自身を獲得できない」と考えています。すべての個性、性格、性質などは、その人の周囲の何人かから選択、コピーされ、パーソナライズされて組み上げられたものだと思います。ですから、模倣としての「中二病」は非常によろしい。

 

とはいえ、あまり一つのサンプルに拘り過ぎるのも考えものです。それに、そのサンプルが現代社会で暮らすうえで、果たして適切なものかということについても考えなくてはいけない。そういった意味で、中二病は大きく不適切な部分もあります。

 

どんな人生であれ、その先には何かしらの結果が待っています。それまでの人生においてどのような振る舞いをしてきたのかということで、老後が幸せなのか、不幸なのかということが決まります。これをより良いものにするために、人は色々なことを頑張ることができるのだと思いますし、人生の面白さもこの中に存在するのだと思います。

 

しかし、中二病の安易な「主人公」化という面は、この「物事が集積した結果」としての人生のゴールの揺らぎを、あまりにも早期の段階から絞らされてしまうものであるように思うのです。つまり、自分にはもう「主人公」として輝く人生しかないというような、非常に安直かつ甘美な選択肢しか見えなくなってしまうものであるのです。

 

 

「主人公」ではない生き方

 

人は「主人公」にならずとも生きる道は無数にあります。ヒーローでなくても立派な人は無限にいます。それに気付くことができなくなってしまうという意味において、中二病は非常に厄介です。

 

「主人公」になることができなかった人間はみんな落ちこぼれであったり、負け組なのでしょうか?そうではないはずです。

 

そのような人々は自分自身の信じる道を選択して、その進路を選び取っているはずです。彼らは、自分自身の人生を充実したものにするために、主体的な選択を行っていると言えるでしょう。見た目に訴えかけるような派手さはありませんが、それでも彼らも立派な主人公なのです。

 

そういった意味で、「主人公」という分かりやすすぎるヒーロー像に囚われなくても、主人公になる道はあります。というよりも、「主人公」像にあこがれ続けるというコースから外れて、カッコつけずに主人公となるために奮闘することこそが、真に主体的な選択と言えるのではないでしょうか。

 

憧れのヒーロー的な存在である「主人公」になるために、逆に一度エゴを捨てて模倣を行う必要があるというのは、なんだかおかしい気もします。ですが、主人公になるということは、必ずしもカッコつけることだけではないはずです。

 

むしろ、カッコつけない所にこそ、その人の人間性は浮き出てくる物でしょう。自分の人生の主人公となるためには、一度ステレオタイプな「主人公」から卒業する必要があるのです。

 

回り道の中にこそ、本当に必要なものは隠れているのではないでしょうか。

 

 

布施川天馬のプロフィール画像

布施川天馬

自称「貧困東大生」。本を出したりWebメディアに記事を書いたりして生活してます。将来は雪が降る街に住みたい。