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芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』から学ぶ「主体性」とは?

芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』から学ぶ「主体性」とは?

 

先日、中学時代の友人と1年ぶりに電話をしました。

その友人は、中学時代ずっと一緒に受験勉強をし、部活でも苦楽を共にした親友中の親友でした。

 

中学時代の恩師が別の中学校へ異動するということで、中学校へ挨拶に行こうという電話だったのですが、中学校へ行きたくないと言われてしまいました。

 

「今はだれとも会いたくない。一人で家にこもってYoutubeやアニメを見ているだけで、最高に幸せ。」

「人と話したくないから、あまり電話してほしくない。」

 

そんなことも言われてしまいました。

 

 

大学の新歓活動にて… 

 

少し話が変わります。

大学の運動系サークルで新歓活動をしていた時の話です。

 

新歓活動とはなかなかキツイもので、1年生がサークルに入ってくれるように2年生以上のこちらとしてはあれやこれやの手を打つわけです。

来てくれたお客さん(1年生)には笑顔で帰ってもらわなければなりません。

 

人によって笑いのツボはさまざまですが、失敗話や恋愛話をすればたいていの場合ひと笑い起こせます。

 

「ゴミ出しの場所を間違えて、警察が家に来てさ~」

「酒飲んで先輩の家のトイレで暴れちゃってさ~」

「この前盛大に振られちゃってさ~」

 

文字に起こすと面白くもなんともない話をピエロのように話し続けるわけです。

 

実際に一笑い二笑いは起こるわけで、やっていることは間違っていないはずです。

かといって爆発的な笑いが起こるかというとそうでもなくて、相手としても愛想笑いをしてくれていたことも多かったでしょう。

 

しかしそんな新入生たちでも目を輝かせて僕の話に食いついてくれたこともあるんです。

それは、ある新入生の女子に某男性アイドルの話題を振った時でした。

 

「そのアイドルに興味あるんですか!?」

 

僕としては、話のつなぎに昨夜FNS歌謡祭でみかけたアイドルの名前を口に出してみただけだったのですが、その話題に彼女は目をらんらんと輝かせ、食いつきました。

 

あの時の目の輝きは今でも忘れません。あれはまさに、少女漫画雑誌「りぼん」の表紙の女の子のようなキラキラと輝いていた眼でした。

 

つまり、彼女たちが最も興味を持って、「主体性」を持って、会話に入ってきた話題は、僕が最近ハマっている小説の話でも、僕が興味のある大学での勉強の話でもなく、某男性アイドルだったわけです。 

 

僕はそのあと帰ってすぐに、彼女たちをサークルに入れるため、新歓活動を成功させるため、「主体性」を持って、某男性アイドルの動画を見まくりました。

 

でもまったくわからないんです。何がそんなに良いのか。本当にわからないんです。

 

 

そんな時でした。今年の芥川賞の受賞作が発表されたのは。

 

 

21歳の宇佐美りんが描く、アイドルオタクの内面とは?

 

物語の概要としては、主人公あかりが男性アイドルを推す心の内面を描く作品でした。

 

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」

 

目を引く冒頭はさることながら、アイドルを推す少女の心情をこれでもかとばかりに表現した素晴らしい作品でした。

 

「あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰めそぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。」

 

「やめてくれ、あたしから背骨を奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。」

 

そうはいっても、この作品を読んで某男性アイドルの良さが分かった、ということは全くありませんでした。1ミリも分かりません。ごめんなさい。

 

ただ、彼女たちの心情は少し理解できた気もしました。

 

というのも、彼女たちにとって、某男性アイドルは「背骨」であり、彼らを推すことが自分自身を『「浄化する」、つまり余計なものをそぎ落とし洗練する』ことである。

 

これを自分に置き換えてみると、自分にも「背骨」となるものはあるし、それらに触れ続けることで「浄化される」気がすることはあるからです。

 

つまりこれは、アイデンティティの問題であって、アイドルであれなんであれ、生きるため(自分を保つため)に、自然と触れ続けなければならないものに触れ続けているだけなのだな、と感じました。

 

だからこそ、某男性アイドルの名前を口に出しただけで、その名前は彼女たちの心の内奥に深く響いたし、心震わせるようにその話題に食いついてきたのでしょう。

 

 

 

主人公あかりに対する家族の反応は?

 

本作では主人公あかりの家族はあかりの「推し」活動に全く理解を示しません。

 

家族は、真面目に学校に通い、就活をし、自立してくれることを望んでいます。

おそらく「真面目に学校に通」わず、「就活」もせず、「自立し」ないあかりのことを「主体性」のない子だ、と思っていることでしょう。

 

しかし本当にそうでしょうか。

 

少なくともあかりは、「推し」活動を通して、アイデンティティの維持を図り、一個の人間として、「主体」たりえている、のではないでしょうか。

 

もちろん現実的に生きていくためにはお金が必要ですし、いつか親はいなくなります。ですので、いつまでも働かずに「推し」活動ばかりしているわけにはいきません

 

でもやっぱり、吹っ切れた一人の人間は清々しく、したたかで、美しい。

 

そう感じさせる力強さがこの作品にはありました。

 

そして

 

「私もそうなりたい。」

 

そう思った読者は僕だけではないはずです。

 

 

 

 

「主体性」とは何か

 

主体性のある人間、主体的な活動とは何か。それがアイデンティティを維持するために触れ続けなければいけないものだとしたら、アイドルを推すこともそうかもしれないし、哲学や文学を学ぶこともそうかもしれない。

 

はたまた、家にこもってYoutubeやアニメを見ることもそうかもしれません。

 

「もう、電話をかけてこないでほしい」

 

そう友人から言われた時、僕は何も答えることができませんでした。

 

それも一つの生き方かもしれないし、ある意味主体的であるかもしれない。

そう思ったからです。

 

でもやっぱり僕はその友人と遊びたいし、電話をしたい。

中学時代の思い出で笑いあって、将来の夢を語り合いたいんです。

 

だからこそ「ひきこもり」生活を否定しなければいけないけれど、かといって「多様性」とかいう厄介な言葉もまとわりついてくる。

 

そんな葛藤の中で今に至ります。

 

自分の中で、「主体性とは何か」に対する明確な答えを出せたとき、再びその友人に電話をかけられる気がします。

 

数年後、再び友人に電話をかけられることを夢見ながら、「主体性」とは何かについて、これからじっくりと考えていこうと思います。

 

参考

宇佐見りん著、『推し、燃ゆ』(2020)、河出書房新社

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高橋光

法学部3年生。座右の銘はまじめにふまじめ。つれづれなる日常を書き綴っていきます。