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「我慢する子」は主体的か?

「我慢する子」は主体的か?

みなさんは、自分が小学校に通っていたころの通信簿の結果を覚えているでしょうか?

 

僕は先日部屋の大掃除をしていたら、普段は使っていない本棚の隅から出てきて、とても感動した記憶があります。雑な管理のせいで埃を被っていましたが、これからはもっと大事にしまい込んでおくことにしました。

 

小学校の頃の通信簿って中学校や高校のように5段階または10段階ではなくて、「よくできる」「できる」「もう少し」みたいな、フワッとした評価でしたよね。また、どれだけ積極性をもって授業や学校生活に参加できているかの欄が非常に大きくとられているのも特徴でした。

 

小学校教育の現場では、それこそ私たちが普段このメディアでお届けしているような「主体性」みたいなことが、中学校などよりもずっと気にされているのかもしれませんね。

 

さて、そこで気になったのが、「主体性」の評価基準です。小学校などでは「嘘をつかないようにしましょう」だったり「思っていることは素直に口に出しましょう」だったりというような標語が作られます。これは、主体性を表しているのでしょうか?

 

確かに、嘘をつくのはよくないことです。また、特に理由もないのに思っていることを隠すのも良くはありません。僕はこの「思っていることを隠す」癖があり、そのせいで大変なことになりかけたので、身に染みてこれのデメリットを知っています。

 

でも、これは少しイジワルな見方をしてみると、「言いたいことを我慢する人」は主体性がないというようにも聞こえませんか?「アレが言いたいけど我慢しよう」と思う人は主体性に欠けているのでしょうか。

 

僕はそうは思いません。むしろ、「言いたいことを我慢できる人」こそが真に主体的な人物なのではないかと考えています。

 

ただし!「言いたいことを隠すこと」はまったく主体的な行動だと思いません。「言いたいことを我慢すること」と「言いたいことを隠すこと」の2つはとても似ているようですが、実はまったく違います。前者には選択の自由がありますが、後者にはそれがないのです。今日は、「我慢と主体性」について僕の考えをお伝えします。

 

二種類の我慢

さて、ただ我慢することは主体的だと言い切っても語弊がありますから、ここでは「我慢」を二種類に分けていきましょう。分類すると言っても簡単で、「やろうと思ってできたことを我慢すること」「やろうと思ってできなかったことを我慢すること」の二種類になります。

 

正確に言うと後者は我慢ではないと僕は考えているのですが、あえてここでは我慢の一種類として分類します。

 

「我慢する」なんて言いますが、これは何を表すのかと言えば、ざっくりと言うと「それができるのかできないのかは置いておいて、本当はやりたいと思っていることを心の内にとどめておく」ということですよね。結構みなさんも日常で我慢していることって多いのではないでしょうか?

 

例えば、朝の満員電車の車内。立っているのもやっとなくらいにギュウギュウ詰めなのに、自分の隣に立っている人は新聞を大きく開いて読んでいる。こんな状況の時「新聞、もう少し畳んで頂けませんか?」と聞きたくなったとしましょう。

 

まぁその人の性別や顔や背格好などは適当に皆さんで想像して頂くとして、あなたはその人に対して「新聞を畳め」と言えるでしょうか?

 

いま例に挙げた状況の場合、よほどの器を備えていなければ、大抵の人は少なからずムカッとすると思うのです。しかし、ここで「やめろと言えない」ことと「我慢をする」ことは全くの別問題になります。

 

「やめろと言えない」のは、単純に勇気がなくて言えなかっただけです。ここでは満員電車内の注意の話でしたが、他の多くの選択行動にもこれは拡大できます。

 

「その選択肢をとることも可能であったのにもかかわらず、勇気がなかったから、その選択ができなかった」ということは「我慢した」のではありません。その人に勇気がなかったがゆえに、その選択肢をとれなかったというだけです。

 

「我慢する」ということはどういうことか。僕の考えでは、「その選択肢をとれる状態にあるけれども、敢えてその選択をしない」ということが我慢にあたります。

 

先の例でいうなら、「新聞を読んでいる人に注意はできるけど、敢えて注意はしない(例えば『どうせすぐ電車を降りるから』等の理由)でそのまま電車に乗り続ける」ということが「我慢」にあたります。

 

あとは、「食卓に残ったからあげの、最後の1つ。本当は自分が食べたいけれども、弟が物欲しそうな目で唐揚げを見ている。だから譲った。」こういうケースは「我慢」だと言っていいでしょう。

前者と後者は似ているのですが、まったく違います。前者はそもそも選択肢自体がありません。「○○したい」というのはただの願望であり、星に祈っているのと何ら本質は変わりません。

 

一方で後者は、選択肢があるにもかかわらず、敢えてその選択を無視したということですから、どちらが臨機応変に動けるかと言えば、間違いなく後者の行動がとれる人物でしょう。

 

我慢することは主体的か?

そして、僕が言う「我慢は主体的」の「我慢」は、言うまでもなく、後者になります。「その選択肢が取れるのに、敢えてその選択肢をとらない」ということは、一人の行動主体として、行動を選択したということになります。

 

以前の記事(自己紹介記事)でもお話したように、僕は「人は個性的になろうとする行動過程で主体的になる」と考えています。

 

どのような選択をするにせよ、その「選択しよう」という意志こそが主体性なのであって、その選択の結果として、人の個性というものが得られるのであると思います。

 

では、そうして選択をした先に得られる個性とは、いったいなんなのか?僕は、個性というものは、まさしく「その人の取りがちな選択肢」であると思っています。

 

人間には様々な欲求や感情の発露がありますが、それの発現度合いはそれこそ人によって様々です。歯に衣着せぬような言い方で意見できる人もいれば、中々他人に意見しない人もいます。また、泣き虫もいれば中々涙を見せない人もいますし、怒りっぽい人がいれば全く怒らないという人もいます。

 

人間である以上は、どんな人であれ、ある出来事からは同じ種類の感情的フィードバックを受けるはずです。その大きさは人によって違うにせよ、最愛のペットが死んでしまったとくれば多くの人は悲しいでしょうし、大事な宝物を捨てられたとあればやはり多くの人は怒るでしょう。

 

または「おなかが減った」と思った時に「おなか減った!」とすぐ口に出す人もいれば、中々そういった欲求を表に出さない人もいるでしょう。家族の部屋が汚くても平気な人もいれば、自分の部屋でなくとも、常に家の全体を綺麗な状態に保っておきたいと考える人もいるはずです。

 

これらの感情や欲求について、どれについては「我慢」するが、どれについては「我慢」しないと決めていくことが、その人の個性を形作るのではないでしょうか。

 

「あの人って怒りっぽいよね」「あの人ってすぐに飽きちゃうよね」「あの人って嫉妬深いよね」というように、感情や性質で個人の個性を表すことはしばしばあるということからも、これを説明できると僕は考えています。

 

つまり、「我慢」という行動は、それ自体があなたに感情的な個性を与える主体的な選択行動であるのです。あなたが我慢するにせよ我慢しないにせよ、その行動をとったということは主体的な選択を行ったということを表します。

 

「我慢した」(もしくは「我慢しなかった」)の積み重ねがその人の個性を形成し、周りから「あの人ってよく泣くよね」「あの人って中々怒らないよね」などと言われるようになっていくのです。

「積極的に行動すべきである」というテーゼが一般に広く受け入れられている現代社会では、「我慢する」という能力はあまり評価されないように感じます。

 

むしろ、例えば「別に自分は悪くないのに、謝った方が早く話が済むから、苛立ちを我慢して謝った」という状況に対して「自分の意見がない」と言われるなど、マイナス方向の評価をされてしまう場合すらあります。

 

しかし、ここまで見てきたように「我慢」は全く付和雷同な行動ではありません。むしろ、「我慢する」ということは主体的でなければできないものですから、この能力はむしろ誇るべきであると思います。ただし、我慢することと選択肢がないことは混同しないようにしましょうね。

 

 

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布施川天馬

自称「貧困東大生」。本を出したりWebメディアに記事を書いたりして生活してます。将来は雪が降る街に住みたい。