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主体的になった「つもり」の演習に注意!講義にこそ必要な主体性

主体的になった「つもり」の演習に注意!講義にこそ必要な主体性

先日、東大法学部のガイダンスにて、法学部長(東大法学部を統括される方)からのご挨拶がありました。その中で学部長は、「演習」という授業形態に触れ、「演習とは文字通り主体的な学び」であるとおっしゃいました。

 

東大法学部の「演習」とは、1,2人の教員と学生20名程度から構成される授業のことで、一般に「ゼミ」と呼ばれる授業形態に近いです。ここでは、教員の専門や関心を中心に、少人数で文献を講読したり、ディスカッションを行ったりしています。

 

普段大教室で行われる一斉講義では得られないことを少人数で学習しようというのが、この演習の目的です。

 

「その演習の主題について,教員や友人と対話しつつ深く学ぶ機会であり,同時に文献を精読し,自ら調査し,発表し,質問し,回答し,議論するといった能力を磨く機会でもある。」(東京大学法学部便覧)とあるように、演習では「自ら」学ぶ能力を向上させることが期待されています。つまり、先の学部長の言葉通り、「主体的な学び」だということです。

 

では、大教室で行われる一方向型の授業(=以下「講義」と呼びます)は主体的な学びではないのでしょうか?

 

もしそうだとすると、私たちの多くが高校生までに受けてきた授業のほとんどは「主体的な学び」ではないことになります。

 

もちろん学校によっては、「アクティブ・ラーニング」が奨励されていたり、新カリキュラムの「探究学習」を通して少人数授業を積極的に実施しているところもあると思います。

 

しかし、それ以外のほとんどの科目では、40人程度のクラスに向かって一人の先生が講義を展開して、生徒はそれを聞くだけ、ということになっているはずです。

 

近年、世間では主体的に学ぶ人材が求められているようです。例えば東京大学のアドミッションポリシーを見ると、「東京大学に入学する学生は,健全な倫理観と責任感,主体性と行動力を持っていることが期待され」ています。(太字は筆者による)。

 

私たちがこれまで行ってきた学びが主体的でないとすると、このように世間で要求されていたものとは違うことに一生懸命取り組んでいたということになってしまい、とても残念な気がしてきます。

 

しかし、僕は必ずしも講義が主体的な学びでないとは思いません。むしろ、中途半端な演習よりも、よほど個人の主体性が問われている授業だと思います(東大法学部の演習が中途半端と言いたいわけではありません)。

 

 

演習は主体的になった「つもり」になる

少人数で、先生から箇所を指定されて調べ学習をしたり、学生同士でディスカッションをしている時、私たちは「自分で話を進めている」「自分の言葉で発表できている」という感覚を簡単に得ることができます。

 

僕も高校時代、少人数でディスカッションをするような授業では、比較的自分から積極的に発言して、主体的に議論に参加できている「つもり」になっていました。

 

もちろんこの「つもり」はとても大事です。人に任せているだけではなく自分で調べ、自分で発表するという体験を一度でもしておくことで、「自分でもできる」というイメージが湧いてきて、恐れが軽減されることになります。ちゃんと取り組めば、「つもり」にとどまらず、文字通り主体的に学習できているはずです。

 

しかし、こういう学習は、自分で考えているようでも、実は先生から与えられたテーマをただ漫然と追いかけているだけだったり、建設的な議論をできているようでも、議論の内容をよく振り返ってみると、話が堂々巡りのまま終わっていたり、よく発言する人の意見に同調しているだけだったりすることもしばしばあります。

 

これでは、僕の定義する「自分の好きなこと、決めたことにひたむきである」という主体性はあまり感じられません。演習という授業形式は、注意しないとこうした「つもり」に陥りやすいのです。

 

 

講義のための予習復習は主体的だ

東大法学部便覧には、講義についても説明しています。

 

「講義は, 体系的な知識を身に付けるにはもっとも有効であり,予習・復習によってその効果はさらに著しく高まる。 授業時間外の自習は必須である。」

 

つまり、講義の本質は「体系的知識の習得」で、そのためには漫然と聞いているだけでなく、「自習」をすることが必要なのです。

 

この自習=講義のための予習復習こそ、主体性が要求される行為です。

 

演習のための準備は、しなければならないという意識になりやすいものです。準備をしなければ、グループワークで班員に迷惑をかけたり、集団の中で何も発表できずに恥をかいてしまうことは目に見えており、多くの人はそれを嫌がるからです。

 

しかし講義のための自習は、それをしなくても自分以外の誰かが困ることはないので、究極的には全くやらなくてもなんとかなります。

 

このような、「やってもやらなくてもいい、しかしやったほうが自分のためになる」という行為に出ることができるというところに主体性があります。

 

人間、「なんとなくためになる」というだけではなかなか動けないものです。「この内容が好きだから」「この内容を極めると決めたから」「将来のためにどうしても必要だから」と意思を固めて、やるぞ!となること、これは僕の定義する主体性にも合致します。

 

 

講義は演習以上に主体性が要求されるが、主体的に取り組めている人は少ない

残念ながら、日本の大学生の自習時間は短いと言われています。『第2回全国大学生調査(2018)第1次報告書』にも、「専門領域を問わず過半数の学生が1週間に1-5 時間程度しか授業外の学習時間を行っていない。」と記載されています。

(参考:第 2 回全国大学生調査(2018)

 

そして、多くの大学で演習よりも講義のほうがカリキュラムの中心を占めていることから考えると、日本の大学生の多くは講義に主体的に取り組んでいないということがいえます。

 

もちろん、興味のないこと、必要ないと思うことまで無理にやる必要はありません。しかし、「大学の授業で何かしらを得たい」と思うなら、演習においてはもちろん、講義において一層主体的になる必要があるのです。

 

「講義なんて主体的じゃない」と思っている人は、改めて授業に向かう姿勢を見つめ直してみると、講義の要求する主体性に気づくはずです。

 

 

河内誠人のプロフィール画像

河内誠人

カルペディエムLIFE編集長。法学部で勉強中。数年ぶりに紙のカードゲーム(デュエルマスターズ)復帰しました。