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自粛する大学生、自粛しない大学生、主体的なのはどっち??

自粛する大学生、自粛しない大学生、主体的なのはどっち??

フィリピンのセブ島での経験

新型コロナウイルスが日常生活に影響を及ぼし始めて約1年が経ちました。一年と少し前、大学の友人と3人でフィリピンのセブ島に旅行に行ったのが遠い過去のような気がしてきます。

 

少しだけその話をしてから本題に入ることにしましょう。

 

セブ島に行った目的は「ジンベイザメウォッチングツアー」。午前3時にホテルを出発し、時速180キロのジャンボタクシーに揺られながら、目的地を目指しました。

 

ツアーには30代のカップル2人組と、女子大生2人組、女子大生3人組、そして僕たち3人の、日本人計10人が参加していました。 

たった半日程度のツアーだったわけですが、海外にいるからでしょうか、ツアー客同士でだいぶ仲良くなるんですね。

 

「ジンベイザメと僕と一緒にスリーショット撮りませんか?」

 

間違っても僕の言葉ではありません。友人がナンパをし始めたときの言葉です。なかなか恥ずかしい口説き文句だなと思いながらも、日本に帰ってきてからもその子と連絡を取り合っているということで、たいしたものだと思います。

 

30代のカップルも、いかつそうな感じで最初はとっつきにくかったのですが、お別れの時には

 

「楽しかったね、お疲れ様」

 

と声をかけてくれて、先日もその友人達と集まったときにそのカップルの話で大いに盛り上がりました。

 

新型コロナウイルスが変えた大学生活

それから約一年。大学生の生活は大きく変わりました。

 

海外旅行はもちろんできないし、国内旅行や実家への帰省だって咎められる。授業、文化祭はオンラインだし、サークルのイベントは基本的に中止。3密対策だとかいって窓が開いている電車はうるさいし、なにより友人と乗った時の周りの目が鬱陶しい。

 

眼鏡をかける人にとってマスクをつけることは特に面倒くさいし、耳が痛くならないようにウレタンマスクが流行ったらそれもまた批判される。だからといってニュースをつければそんな不幸はちっぽけなもので、もっと不幸な被害者が画面の中でインタビューを受けている毎日。

 

そんな中、先日こんなツイートがタイムラインに流れてきました。

 

「自粛をちゃんとしている大学生は就活で話すことがなくて困るけど、

自粛してない大学生はいろんな活動をして就活に成功するという矛盾。」

 

自粛していてもできることはいっぱいあるじゃないか、とかいう批判はあるとしても、なんとなく感覚としては言いたいことが分かる気がします。

 

就活どうこうはおいておくとしても、今真面目に自粛をするよりも、自粛をしない学生の方が長期的にみて得をするだろう、そんな予感がするからです。

 

年齢を重ねるにつれ、過去の「記憶」や「思い出」が明日を生きる活力になる、そんな気持ちになることが多くなってきました。

 

今外出できないことがつらいというより、将来思い返せる大学生活がなくなるのではないか、そんな不安が大学生に不満がたまっている大きな原因のような気がします。

 

「主体的」なのはどっち?

では、自粛せずに外に遊びに行くのが正しくて、「主体的」なのでしょうか。

 

僕の友人は言います。

 

「自粛するやつなんてろくな人生歩まないだろう」

 

社会人として、社会の一構成員として、こういった発言は相手にされないでしょう。自分のことしか考えず、ただ遊びたいから遊ぶ、外出する。そういう人が主体的であるといえるはずがありません。

 

では他方で、ちゃんと自粛して、家の中でできることをコツコツやる。そういった生活は「主体的」といえるのでしょうか。

 

たしかに、資格試験の勉強をしたり、大学の授業や課題をオンラインでこなしたり、律儀にzoom飲み会をしたり……。

 

そういった生活は、「自粛警察」がのさばる現代では安全で、正しい生活の仕方と言えそうです。

 

ただ一方で正しいからといって「主体的」、といえるでしょうか。

 

自分が外出することにより生じるリスクと、外出することにより得られるメリットを比較して、主体的に、熱意をもって自粛する。そういう人も一定数いるかもしれません。

 

ただ周りを見ると、政府がいうから、都知事がいうから、親がいうからなんとなく、だけど絶対に自粛する。そういった友人が多数を占めるのではないでしょうか。

 

そういう人はたしかに社会的に正しいのかもしれませんが、「主体的」とは間違っても言えない気もするんです。

 

たとえ社会からは自粛する学生が我慢強く、真面目だと判断されるとしても、そういう人からはロゴス(=感情)とパトス(=理性)が衝突して生まれる力強い意思というか、そういうダイナミズムを一切感じないのです。

 

 

自粛する人としない人、どちらも「主体性」がないのだとすれば、コロナ下で「主体的」になることは不可能なのでしょうか。政府がいうからマスクをし、都知事がいうから3密を避け、親がいうからなんとなく帰省を控える私たちは「主体的」になる可能性すらないのでしょうか。

 

『マスクについて』(鷲田清一)から学ぶ主体性の種とは

「主体性」のない群衆の一人として、ちゃんとマスクをして、人込みの中を歩いていると、ふと頭をもたげる論考があります。

 

哲学者鷲田清一さんの『マスクについて』という論考です。

 

「マスクはたしかにそれを装着している人の存在を不明にする。けれどもそこには、消失の不安とともに、人を魅入らせる妖しさもある。他人が、そしてじぶんが、何者でもなくなるという、ぞくっとするような妖しさだ」

 「とくに今わたしたちが回避を求められている濃厚接触が、ほんらいは人びとの喜びの源泉であったこと、あることを忘れないでいたい。」

 

コロナウイルスは、政治的にも経済的にも社会的にも日本を分断し、細分化しました。

 

これは全くもって必要のない分断だったし、本来仲が良い友人がコロナに対する考え方の違い(コロナ観)によって仲が悪くなるといったケースもまれではなかったでしょう。

 

ただ、そうした細分化された今の社会の中にこそ、「主体性」の種が隠されている気もするんです。

 

僕の友人は、渋谷や新宿だったらあんな恥ずかしい口説き文句は言えなかっただろうし、30代のいかついカップルと仲良くなることもなかったでしょう。「顔の見えない」海外だったからこそ、仲良くなることができたのでしょう。結果的に、自分とあまり関わることのなかった人たちのことを知れたし、勉強になったし、なにより楽しかった。こういう経験をしたことがある人は少なくないはずです。

 

マスクによって、ソーシャルディスタンスによって、人と会う機会はめっきり減りました。

 

しかし「顔が見えない」からこそ、授業中の質問が増えたと教授は口をそろえておっしゃっているし、パーマをかけよう、整形をしてみよう、そういった人たちもいたかもしれません。

 

そう考えると、もしかしたらコロナ前よりも、「主体性」の種は増えているのではないでしょうか。

 

そして、それに水を与え、その種が芽を出し、苗木となり、大木となるかどうか、それは一人ひとりにかかっているのだろう、とも思います。

 

様々な価値観がある中で、自粛していようともしていなかろうとも、そうした「ぞくっとするような妖しさ」に興味を持ち、「ほんらいの人々の喜びの源泉」を追い求め続けられる人、そういう人であればどういう人であれ、「主体的」である、そういえるのではないでしょうか。

 

参考

鷲田清一「マスクについて」、内田樹編(2020)、『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』、晶文社

高橋光のプロフィール画像

高橋光

法学部3年生。座右の銘はまじめにふまじめ。つれづれなる日常を書き綴っていきます。