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「自分らしい自分」は他人の中に眠っている

「自分らしい自分」は他人の中に眠っている

あなたにとって「主体的である」とはいったいどんなことを指しますか?主体的、主体として動いている様子を指す言葉ではありますが、いったいどのようにすれば、あなたは主体的であるということができるでしょうか?

 

色々な答えがあるでしょうが、僕の答えは「個性を持とうとすること」です。自分が自分としてあろうとする力、他者とは違う個人としての自分を獲得するための闘争こそが、僕にとっての主体性の源なのです。

 

今日は「主体的、個性的とは何ぞや」という話から、僕が主体的になるまでをお伝えしようと思います。

 

主体的≠個性的

そもそも、どうして人は「主体的」であるべきなのでしょうか?「主体」という言葉を辞書で引いてみると次のように出てきます。

 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の主体」⇔客体

 物事を構成するうえで中心となっているもの。「食事療法を主体に種々の治療を行う」「市民主体の祭典」

 《語源の(ギリシャ)hypokeimenōnは、根底にあるもの、基体の意》哲学で、他に作用などを及ぼす当のもの。認識論では主観と同義。個人的、実践的、歴史的、社会的、身体的な自我の働きが強調される場合、この主体という言葉が用いられる。→主観

(goo国語辞書より引用)

 

もしもあなたが「主体」という言葉を用いる場面があれば、特に1の意味を念頭に置いているケースがほとんどなのではないでしょうか?「自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりする」ためには、当然自分の意志や信念が必要となってきます。

私たちは、これら自分の意志や信念などの「他者との一線を画しつつ、自身の存在理由を示すためのタグ」を個性と呼びます。

 

「あの人って個性的だよね」と言われるような人は、大体みんな揃って自分の意志に基づいて行動しています。ですから、「個性的であることが主体的である」というように、これが個性と結びついてしまうのもまた仕方のないことのように思えます。

 

では、個性的である人は、元から主体的な人間だったのでしょうか?僕の考えでは違います。僕はむしろ「個性的」というレッテルは「主体的」というレッテルに対して常に追従していて、絶対に前者が後者を追い抜いていくことはないと考えています。

 

最近のゲームでは、デジタルな自分の分身(アバター)を作ることができるものも多いですが、これらアバターは最初、誰のものであれ似たり寄ったりな姿をしています。そこから色々なアイテムを得たり、見た目を変えたり、時にはお手本のアバターの真似をしたりしながら、自分だけのアバターを作り上げて遊ぶのです。

 

カッコいいアバターにする人、かわいいアバターにする人、おもしろ路線で行く人……様々いると思いますが、ここに個性はあらわれます。

 

「個性」というのは、アバターに施す改造と一緒です。最初から個人としての個が確立しているというわけではありません。「このアバターを自分らしくしてみよう」とする意志こそが主体性であって、個性と言うのは後から着脱可能なパーツに過ぎないと思うのです。

 

個性的とは?

そもそも、私たちはどんなことを指して「その人の個性」と言うのでしょうか?歌が上手い人やスポーツが上手い人はもちろん、歌やスポーツがその人の個性であると言えますよね。

 

怒りっぽい人や泣き虫な人ならその性格が個性ですし、お金持ちだったり貧乏だったりするなら、それさえもその人の個性と言えるかもしれません。

 

個性と言うのはつまるところ、溢れる人間たちの中で、他の人と自分、他の人とその人を区別するための属性分けです。ですから、プロ野球球団において「野球が上手いこと」は個性になりえませんし、日本において日本語が喋れても、個性にはなりません。

 

ですから、個性的であるためのカギは「自分の属する集団において、他の人とは異なる属性や特技を持っていること」です。上記の例でも、サッカーチームで野球が上手ければ個性ですし、アメリカで日本語がペラペラなら、それもまた個性としてカウントされます。この時、あなたは「○○というチームで野球が上手いサッカー選手の××さん」のようにして他者から認識されることになります。

 

ではこのような人々は、最初から個性的であったのでしょうか?たとえば「クラスで一番ピアノが上手い○○さん」や「クラスで一番面白い××さん」といったキャラクタ付けは、どこから来るのでしょうか?僕は、この源は他者の中にあると思います。

 

「クラスで一番ピアノが上手い○○さん」は、ご両親やきょうだい、ピアノ教室の先生などの誰かにピアノを習って、「クラスで一番上手い」という半ば称号じみた地位を得るに至ったのでしょうし、「クラスで一番面白い××さん」だって、元々お笑いが好きで、自分でも無意識のうちにお笑い芸人のネタやギャグからツッコミやボケの着想を得ているのかもしれません。

 

僕の「個性的」になろうとした瞬間

例えば、僕はもともと中学生の頃はそこまで目立つようなキャラクタではありませんでした。しかし、どうしても「他人から面白いと思われるような人になりたい」という欲求を抑えきれずにいました。

 

とはいえ、面白さとはなんぞやということについて全く考えずに騒いでも、ただの「なんかよくわからないうるさい奴」で終わってしまいます。これは当初の目的から考えると最悪の結末とも言えることでした。

 

僕のクラスメートで、みんなの笑いをとるのが上手い人がいました。ある日、僕はその人のツッコミやボケを聞いて、「これがみんなにウケているのだから、少なくとも中学生にはウケるお笑いのセンスが学べるかもしれない」と考え、その人の言動やギャグを逐一記録・分析することにしました。

 

「笑いのセンス」とは言いますが、しかしすべてがセンスだけで成り立っているわけではないはずです。ある程度は理論的に説明できる部分もきっとあるでしょう。ですから、その人のギャグで特に印象に残ったものがあれば記憶し、「なぜそれがウケたのか?」「なぜ人は笑うのか?」などを理論で説明できるようになれば、自分にも再現できるようになるであろうという考えがあったためでした。

 

この頃は、下校中の自転車に乗る時間や寝る前の布団に入ってボーっとする時間など、ほとんどすべてをその人のギャグ(と周囲の反応、文脈)の解析にあてていたような気がします。

ある日、横洲先生という先生が、教室に遅刻してきたことがありました。もちろん、先生は多少申し訳なさそうにするわけですが、中学生ということもあり、みんな先生の遅刻をからかっていました(今となっては本当に生意気だったと思います)。

 

すると、僕が観察対象にしていた子が「先生さァ、縦だか横だか知んないけど、もっと申し訳ないと思わないの?」と言ったのです。これにクラスは大ウケ(文字に起こすとまったく面白くないのですが、ライブ感込みだと本当に面白かったんですよ!)。先生も含めてみんな大爆笑し、その場は収まりました。そして、おそらくこの場でただ一人、僕はこの「縦だか横だか知んないけど」という枕に衝撃を受けていました。

 

人間の笑いにはいくつかのパターンがあることは、研究の成果から分かっていました。優越や同調によって引き起こされる笑いはともかくとして、いわゆる「ウケる」笑いというものは、何かしらの演出されたギャップに対するリアクションとして放出されるものだと僕は考えていました。

 

とはいえ、どうやってギャップを演出するのかはまたこれも考えもの。そうなった時に、僕に対して大きなヒントとなったのがこの「縦だか横だか」だったのです。

 

「なるほど、そこに来るであろう事象に対して、敢えて同系統の言葉でそろえながら外していく。つまり『横洲』という苗字から『横』を切り取り、それと親和性の強い言葉である『縦』に置き換えることによって、みんなが周知の事実である『”横”洲』という苗字とのギャップを演出し、笑わせたのだな」これは僕にとって大きな気付きとなりました。

 

この「おもしろキャラ」分析活動を始めてから、おおよそ半年が経ったころでしょうか。授業前の休み時間に、何とはなしに友達のボケに対してツッコんでみたら、それまでは見たことがないほどの勢いでウケたということがありました。理論が染みついた瞬間でした。

 

この瞬間から、僕は「(少なくとも中学生レベルでは)面白いことを言うやつ」として、クラス内のキャラクタを定着させることができたのです。

 

ですから僕は、主体的であるために必要な条件は「個性的であろうともがくこと」だと考えるのです。「個性的であろうともがくこと」には、例えばレッスンをうけるであったり、誰かの真似をしてみるであったり、様々な方法が考えられるでしょう。

 

僕はこれらの行為に対して「これが正解だ!」というつもりはなく、あなたが必要だと思ったのであれば、それらすべてが「個性的」になるために有効な行為なのだと思います。

 

そして、あなたが個性的にならんとして何かを行っているその過程こそが、ある個人が主体的であろうとして藻掻く様子に他ならないのだと僕は考えるのです。なぜなら、(僕の考えでは)人はみんな元々個性を持っていない以上は、個性を取得するためには自分の意志が必要になるからです。この意志こそが、主体性の塊だと思うのです。

 

もしあなたが、中々行動を起こそうとすることができていなくても、きっと動こうとする意志はあるはずです。そして、その意志を育てていくことこそが、自分の意志で動ける人間になるための近道だと思います。

 

どうしても行動に移しにくいのであれば、まずは「なりたい自分は何なのか」から探ってみてはいかがでしょうか?

 

参考

goo国語辞書|主体(しゅたい)の意味

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布施川天馬

自称「貧困東大生」。本を出したりWebメディアに記事を書いたりして生活してます。将来は雪が降る街に住みたい。